paranoia poison


 何もかも全て壊してしまいたくなるときがある。
 今のままで充分に安定しているというのに、自らの手でそれを壊してしまいたくなる。
 それが終わりへと繋がるとわかっているのに、自分の手で形もわからなくなるくらいに。
 バラバラに……何もかも全て、解らなくなってしまうほど。
 最初は、ほんのひとかけら。次第に強く大きくなって蝕んでいく。
 幸せというぬるま湯が漏れてしまっても、狂気という新しい湯を入れればいいだけのこと。
 じわじわと忍び寄る感情はまるで……毒のようだ。




 吐く息が白く染まる、冬の夕暮れ。
 私は大学の講義を終えて、校門で彼女と待ち合わせをしていた。
 今までの何人もの女性と付き合ってきたが、今の彼女が一番関係が続いている。
 彼女と出会ったのは大学に入ったころだろうか。気が付いたら、仲が良くなっていた。不思議なものだ。
 そのうちに、いつのまにか恋人関係にまで発展していた。これまた不思議なものだ。
 だが、これだけは確かだ。私は、誰よりも彼女だけを愛しているということ。
 今までに恋愛関係がなかったぶん、執着が強いのかもしれないと思っている。
 誰一人として私のことを理解してくれるものなどいなかったのだから。
 講義終わりの人が行きかうなか、門にもたれて携帯メールを確認した。
 先ほど彼女に送信してからまだ五分と経っていないが、もう返信が来ていた。
『もうすぐ終わるよ。終わったら、真っ直ぐ会いに行くから待っててね』
 いつまででも、待っていますよ。
 誰に言うでもなく一人私は呟いた。専攻している科目が違うので、終わる時間もばらついてしまう。
 過ぎていく時間の一分一秒がとても長く感じられ、待ち遠しかった。
 何度か同じ科の女性に声をかけられたので、愛想よくあしらっておいた。
 彼女以外の女性になど、私は興味がないから。
 だからといって、他の女性に毒を吐くようなつもりはないのだけれど。
 周囲からどう見られているかなんて、どうでもいい。
 はやる心を抑えながら待っていると、やがて後ろから愛しい声が聞こえた。
「ごめんね、遅くなって……待ったでしょう?」
 これ以上ないくらいの笑顔を浮かべて、私は振り返る。
「今来たばかり……というのは嘘ですが。そんなには待っていませんよ」
「それならよかったけど……じゃぁ、帰ろうか?」
「ええ」
 私と彼女は、二人並んで駅へと向かい歩き出す。
 彼女は一つ先の駅でいつも降りているという。私は、彼女を駅までいつも送っている。
 私自身は、大学の近くにアパートを一室借りてそこに住んでいる。
 彼女はいつも、送らなくてもいいというのだが、女性の一人歩きは危ないから、と私が押している。
 とても優しくて微笑の綺麗な彼女。私にとって、たった一人の天使のような存在。
 誰にでも分け隔てなく接する様子は、見ているだけでも美しい。
 彼女の声も、鈴音のように澄んでいてひどく心地よい。
「勉強の方はどうですか?」
「ん〜まあまあ……かな。少し、解らないところがあるの。今度教えてもらってもいい?」
「もちろん。私にわかる範囲なら喜んで教えますよ」
「そんな、喜んでだなんて。勉強教えるくらいで大げさよ?」
 そういいながら、彼女はくすくすと笑う。
 笑う彼女を見て、私の顔も自然とほころんだ。あぁ……とても幸せだ。
 私の傍に彼女がいてくれるのならば、それだけでいい。他の何をも必要ない。
 そうは思うのだけれど、そういうと彼女はいつも困った顔をして笑うから。
 私の中だけにしておきましょう。
 その後もしばらく他愛のない話をしていると、あっという間に駅へとついてしまった。
「では、また明日会いましょうね」
「うん。それじゃあ、またね」
 私は彼女が改札を通り過ぎていくのを、ただ見つめていた。人混みの中に紛れて見えなくなるまで。
 そうしないと、何故だか落ち着かなかったからだ。

 
 私は彼女とずっと一緒にいると思っていた。彼女もまた私を好きでいてくれると思っていた。
 私のこの性格を、彼女はちゃんと知っているはずなのだから。
 自ら過ちなどおかすはずがないとでも、私は思いこんでいたのだろうか。
 そう、きっかけはほんの些細なこと。


 その日も、私はいつもと同じように、彼女が来るのを待っていた。
 授業はつまらくもないが、特別興味を誘われるようなほどでもなく。どれも同じようなものだった。
 待っている途中、ふと視線を上に向けたときのことだった。校舎の入り口に彼女が見えて……
 私が彼女に向かって手を振ろうとしたとき――見知らぬ男が彼女に声をかけた。
 その男を私は知らなかったが、彼女は知っていたようで。親しげに何事か話し始めた。
 二人を、私はただ眺めていた。
 胸のうちに湧き上がるのは、静かな苛立ちと怒り。むろん、彼女に対してのものではない。
 見知らぬ男に対してのものだ。私のところへ来ようとしている彼女を引き止めるなんて。
 あまつさえ、あんなに親しげに会話をしているなんて……恋人の私の目の前で。
 今すぐ駆け寄って男を引き剥がしたい衝動に駆られたが、下校途中の生徒も大勢いる。
 そんなことをしてしまったら、彼女にも迷惑がかかるし、会えなくなってしまう。
 だから、我慢しなければいけない――
 ぎりり、と歯軋りの音が耳に聞こえて、我に返った。知らず知らずのうちに力がこもっていたらしい。
 一、二回深く深呼吸をして、自分を落ち着かせる。……今日だけだ、きっと。
 とりあえず二人から視線を外そうとしていると、誰かが肩を叩いた。
「よっ。何してんの? こんなところにつったって」 
 振り向くと、比較的仲のよい知り合いが笑いながら立っていた。人懐っこい笑みは、嫌いになれそうにない。
「ん、ちょっと人待ちをしていただけですよ。恭は?」
「ただの通りすがりだよ。周防が何してるのかな〜と思って。そっか、待ち合わせか」
 急ごしらえの作り笑顔にも何も言わず、恭はそう答えた。さっきの私は無表情だったろうに。
 そういうところを気にしない性格の彼とは、面倒なことがなくて助かる。
 恭がさっきまで私が見ていたほうを見て言う。
「もしかして……彼女待ちかな? あそこの、キレイな人」
 目線だけで、彼女の方を指し示した。裏のない純粋な言葉に、私は苦笑しながら答えた。
「ええ。お褒めの言葉をどうも。また今度、お昼でも一緒にどうです?」
「お昼っても、学食だけどなあ。おっと、それじゃあ俺は行くわ」
「また明日。」
 私に向かって歩いてくる彼女に気が付いたのだろう。恭は手を振りながら歩いていった。
 いつのまにか、二人の会話は終わっていた。彼女が話すよりも早く、私は声をだした。
「さっきの人は、友達ですか? 少し話しが長いようでしたけど……」
「えっ? ああ。同じグループの人よ。聞きたいことがあったみたいで。……待たせちゃった?」
「そういうわけではないので、気にしないでください。私も友人と話していましたから」
 そっか、といいながら彼女は私の方へと手を差し出した。いつもの、手を繋ぐ前の動作だった。
 一瞬、無言でそれを見つめてから、私は彼女の手を取って歩き出した。
 いつもと同じように二人で、駅に向かって。ほんの少しの狂いなど気にしてはいけない。
 すぐにどこかへ去ってしまうのだから。今日はたまたま見てしまっただけのこと。
 彼女は私のことを見ているのだから。今はそれだけでいい。私も同じなのだから。
 暗くなりつつあるたそがれ時。肺の中が冷たい空気でみたされる。
 冷たさにおかされて、頭の中で何かが、確かにきしむ音が聞こえた。


 偶然は残酷な歪みをもたらして。歪んだ隙間には狂気と欲が流れ込む。
 気づかないふり、見ないふり。触らぬように押し殺してきたものがあふれだす。
 この程度にしておこうと、気づいたときにはもはや手遅れ、そこは泥沼。
 あとはひたすらおちていくだけ。

 
 年の暮れになってくると、授業も忙しくはなってくる。
 事実、私も色々な課題やレポートに追われていて大変だった。それは彼女も同じはずだった。
 だから、会えない代わりによく電話やメールなどをした。最初のうちは、ちゃんと返事が返ってきていた。 次第に、電話に出てくれる回数や、メールの返信が減っていった。
 私は、きっと彼女も忙しくて大変なのだろうと思った。やらなければいけないことはたくさんあるのだから。 離れていても私達の仲は変わらないのだと信じて疑わなかった。けれど。
 私にとって不愉快でしかない情報は、友人の恭からもたらされた。
『周防の彼女っぽい人、この間の男と話してたぜ?』
 たったそれだけの、本当かどうかもさだかではないメールだった。それでも、私の不信感をあおるのには充分すぎるほどで。
 他の男と話すほどの時間があるのならば、私と会えばいいのに。何故そうしないのだろうか。
 私と会うことよりも、それの方が大事だとでもいうのだろうか。 
 彼女に限ってそんなことはないだろうと私は思っている。それを裏づけする証拠が欲しかった。
 私がそのメールをもらって以来、彼女へと連絡する回数は極端に増えた。
 今までは彼女の授業中などは遠慮していたが、それもやめた。
 やがて、彼女からの返信メールは途絶えてしまった。その事実に私はとても驚いて。
 ひどく不愉快な感情が胸の中を支配して、唇からは力を入れすぎたせいで血が流れた。
 自分を抑えつけるのに必死にならければなかった。
 それから、学校の中で何度か彼女を見かけることはあった。けれど彼女は逃げるように何処かへ行ってしまう。本当ならば講義など放り出して後をつけたいが、他の生徒には不審に思われてしまう。
 まだ周囲の眼を気にするだけの常識は、ぎりぎりだがあった。
 彼女を追いかけたくとも追いかけられない。そんな日々が続いていった。
 今までは彼女と会うことだけが唯一の生きがいといってもよかった。
 それが奪われた今、講義など両の耳を通り過ぎてゆくだけだった。それでも、常に微かな笑顔を絶やさず。
 それはとても疲れる毎日だった。
 一ヶ月が過ぎたころ。
 食堂でためいきをつきながら食事をしていた私の前に、恭が座った。彼が手にしていたのはカレーだった。
 昼からよく食べるなと、疲れた頭の片隅で一瞬考えた。
「よっ、前いいか?」
「恭。それは普通座るまえにいう言葉ですよ」
 苦笑しつつも私はそう答える。いつもの微笑みは今はない。彼相手ならばそんな必要もないからだった。
「まぁそのとおりなんだけどな。で、どうした周防」
「何がですか?」
「何がもなにも。お前最近ためいきついてばっかりじゃないか、らしくないぜ」
 私らしい、とはいったいどういう状態のことを指すのかと疑問に思ったが。
 大方、普段の落ち着いているときのことをいうのだろうと納得した。
「どうしたって、恭がメールをくれたんでしょうに。わかっているでしょう?」
「なに、まだ彼女に会えてないの」
 カレーを食べながら話す彼の言葉が胸の奥へと重く沈んでいく。他人からいわれると酷く重い。
 だんだんと、目の前のものを食べる気さえ失せてきてしまう。自然と箸が止まった。
「そのとおりですよ。まったく、どうしたものでしょう」
「俺に聞いてもなんにもならないって……」
 彼に愚痴をいっても、どうにもならないことはわかっている。これは私と彼女の問題なのだから。
 ただ、愚痴でもいわなければおさまりがつかないだけのことで。
「ちゃんと連絡とってんの?」
「それはもう。電話もしてますし、メールもしっかりたくさん」
「どれくらい……?」
「たくさん、です。とりあえず私をみて欲しいですから」
 独占欲強いなぁ、と今度は恭が苦笑した。私は人並みだと思っていたのだけれど。
 誰でも、愛しい人には振り向いてもらいたいものではないのだろうか。
 私が彼にそう告げると、恭はいった。
「いや、それはそうなんだけどさ……なんというか、しつこいんじゃないか?」
「……それで、あの男のところにいったと?」
「それは邪推だって。まだそうなのかはわかってないんだろ?」
「ええ。でも、他の人といるのは確かでしょう、私のところにいないのだから」
「女友達とかって可能性もあるんじゃない?」
「さぁ……その辺の交友関係については、私は知りませんので」
 いつのまにか、彼は食事を終えていた。ほおづえをつきながら話は続く。
「うーん……ほどほどにしておけ、としかいいようがないなあ」
 頭をかきかき、恭はそういう。
「周防ってさ、見てるだけで危ない感じがするんだよな」
「なんですかそれは」
 私は少しだけ驚いた振りをした。そういう雰囲気は、隠しても霧のように漂ってしまうもの。
 ただひたすらに、彼女しか見ていないというのに。彼女もそうあって欲しいと願っているだけなのに。
 ソレの何がいけないことなのだろうか。間違っているとでもいうのだろうか。
「真っ直ぐすぎるっていうか、思いつめすぎそう。一気に爆発したりしそうでな〜」
「そんなに切羽詰って見えているんですか、恭には」
「まぁ、そこまでではないけどな。腹のそこには何かありそうだな〜と」
「へぇ……恭はそういうふうに私のことを見ていたんですね」
 私のその言葉に、恭は慌てた表情をした。口がぱくぱくとしていて、金魚を連想させる。
「あれ。怒った? ってそんなに周防は短気じゃないよなあ。親友なんだから怒るなよ」
 一瞬、恭の親友という吐き気を覚えたものの、押さえ込む。
「怒らないですよ、私の邪魔さえしなければ」
 彼女と私の邪魔をするものなど、必要ない。目障りなだけだ。
「恭は、そんなことはしないでしょう?」
 これ以上ないくらい爽やかな笑みを作って彼へと向ける。笑顔の裏に隠した意味を読み取れるはずだ。
「わかってるよ。俺ができるのは忠告だけだからな。後はお前自身に任せるよ」
 誰にいわれずとも、彼女は私のものなのだから。
「そう。わかっていればいいんですよ」
 私は彼にそう答えてから、食事を再開した。じきに昼休みが終わってしまう。
 授業の遅れは、帰りの遅れへとつながってしまう。彼女を追わなければならないのだ。
 急いで口の中に放り込んだ食べ物は、何の味も感じられなかった。

 その日は、彼女を追う必要などなかった。廊下で見つけることができたから。
 あの男と話しているところを目撃してしまったのだが。
 曲がり角の手前でその光景を眺める私に、二人は気づいた様子はなく。
 何について話しているのかは聞こえないが、雰囲気はとても仲むつまじく感じられた。
 無表情でそれを見た後、私は大学を出た。
 もう、本当か嘘かなどどうでもいい。たとえ講義の話だったとしても関係はない。
 私のことに彼女が気づいていないのだとしても。私はそれを見た、それが事実。
 約束などは交わしていなくとも、裏切ることはできる。とても簡単だ。
 その人が、裏切りだと思う行動をすればいいだけのことなのだから。
 私が少し眼を離してしまったのがいけないのだろう。だから虫が寄ってきてしまった。
 美しい蝶も、目をはなした次の瞬間には捕食されてしまうことがある。
 そうさせないためには、人間が捕まえて、籠の中で愛でてあげればいい。自由と引き換えの生存。
 他のものに取られてしまうのならば、自分の元から離さなければいい。綺麗に飾って、鍵をかけて。
 そうすれば、彼女は本当に私だけを見て、私だけを思ってくれるだろう。邪魔者も消せばいい。
 口元の歪んだ笑みを隠すこともせずに、私は学校を後にした。
 その数日間、私は忙しかった。
 大学が終わった後には不動産へ寄り、大学から離れた場所にあるアパートを一部屋借りた。
 音楽の練習をしたいと告げ、防音性の高い部屋を探してもらった。それなりの値段はしたが、普段からこまめにバイトをして貯めていたので、なんら問題はなかった。
 次にインターネットの裏側を調べ、特殊な薬品を手に入れた。一種の麻薬のようなもの。
 液状のそれを型にいれて、丸いあめだまのような形にしあげた。
 鮮やかで、それでいて毒々しい果実を思わせる色。彼女にはきっと似合うだろう。
 その他必要なものも、インターネットのサイトを通じて手に入れた。
 規制だなんだと騒がれているが、たいした効果があらわれていない。隠されているだけだ。
 ある種の無法地帯だと私は思った。そのおかげで望みのものが手に入ったのだけれど。
 あとは、少しのお金をばらまいて、手伝ってもらう人を選んだ。他言無用が条件だ。
 そうして、準備は整った。


 私は、彼女のアパートの部屋の中へと閉じ込めた。
 雇った物に彼女をなかば無理やりに連れてきてもらい、薬を与えるだけ。
 そいつらにはすぐにその場で報酬を渡して、去ってもらった。
 一粒、封筒の中に薬をいれておいたが、どうなったのかまでは私は知らない。口封じになればいいのだけれど。
 彼女の意識がないうちに、手足に鎖を繋ぎ、鍵をかける。繋ぎ終わったら、ベッドの上へとそっと横たえる。暴れても怪我をしないように、手錠の下には薄い布を巻いておいた。
 私が彼女に与えた薬は、身体の自由を奪うものらしい。完全に奪うわけではないようで、ほんのわずかならば物を掴んだり、動かすことはできるらしい。副作用として、自我や記憶に影響がでるという。
 薬を定期的に与え続ければ、何がなんだかわからない状態を維持し続けることができる。
 別に私は彼女を殺したいわけではないので、薬の量はこれでもかというくらいしっかりと調整している。
 それに彼女なら、私のことを忘れず覚えていてくれるはずだ。愛しいもののことは、忘れないだろう?
 昼間は戸締りを厳重にしてからアパートを出、大学へ。講義が終わると買い物などをして部屋へと戻る。
 食事などを用意してあげて、食べさせてあげる。人間ほとんど意識がないような状態でも、反射で物を飲み込んだりしてくれるので、楽で助かる。時間を見てトイレなどにも連れて行ってあげるが、薬で呆けてはいても、体には習慣が染み付いているらしく、特に困ることはなかった。
 退屈きわまりない、いつもどうりの生活。変わったことといえば、前よりも恭と食事をとるようになったことだろうか。彼は意外に顔が広く、様々な噂話を知っているので役に立つ。
 彼にきいたのだが、彼女と話していたあの男は交通事故にあったらしい。何者かに突き飛ばされたとの事。
 そのため、彼と昼食を共にする機会がふえたのだった。

 そうして今も、食堂で昼食を食べている最中。今日はいつもよりも人が多かった。
「それにしても、あの男も不憫だよなあ。車に引かれるとかさ」
「そうですねぇ……罰でも受けたんじゃないですか?」
 満面の笑みで返した言葉に恭が一瞬固まったが、また何事もなかったかのように食べはじめた。
 今日の彼が食べているのはかつ丼だった。いったいいつまで育ち盛りなのかと疑問に思う。
 私はいつもどうりに、日替わりでメニューが変わる定食をつまんでいた。
「周防ってさぁ、やっぱりたまに怖いこというよなあ」
 じとっと、こちらを見ながらそんなことをいう恭。
 別に彼に対して何かしているわけではないのだから、いいじゃないかと思うのだが。
「ずうっとお人よしの方が恐ろしいとは思いませんか?」
「何それ、俺に対しての嫌がらせかよ〜」
 ぶうぶう言っている恭をみて苦笑する。今言ったことを、少しも本気ではないと思っている。
 最近では珍しいタイプだと私は思っている。そのぶん、これからが楽しみな気もするが。
「まさか。友人にそんなこというはずがないでしょう。……はい」
 私は彼の丼に、煮物を一つわけてあげた。嫌いなわけではないが、手っ取り早いと思ったから。
「ん、サンキュー。そーいえばさ、彼女とは上手くいってんの? あのキレイな人」
 私はうっかり煮物に箸を差してしまい、少し慌てて口の中へと運ぶ。勢いよく噛んでいたら、口内も噛んでしまった。わずかな血の味が舌に残った。
「ええ。とてもうまくいっていますよ。あつあつです」
「うっわ、嫌味ったらしいな。まぁ、お前が元道理になったならいいんだけどな」
 しっかりと元道理にはなっている。また私と彼女だけの関係に戻ることができたのだから。
 邪魔者はもういないし、これからまた新たに現れることもないだろう。
 誰も彼女とは出会えないのだから。
「私のことはいいので、恭も彼女でも作ったらどうです?」
「作れるんだったらとっくにいるって……俺はもてないんだよ……」
「おやおや。それはご愁傷様です」
 くすくすと笑っていると、私のお皿から恭がおかずをひとつさらっていった。
「あら、何するんですか。さっきあげたでしょう」
「地味にその言い方むかつくな……幸せのおすそわけくらいくれよ」
 さらにもう一度手が伸びてきたので、ぴしゃりと叩く。打たれた手は大人しく戻っていった。
「全部持っていく気ですか。ほら、食べてしまいましょう。講義が始まってしまいます」
 いつもいつも、彼と話していると昼食は自然と長くなってしまいがちで。
 最終的には次の講義場所へと急ぎ足で向かわなければならなくなる。
 そんなこともたまにならば歓迎するのだが。毎回となるとそうもいかない。
 さっさと食べ終え、まだ何か買おうとしている恭をひきずりつつ講義場所へと向かった。
 たいしたこともない生ぬるい日常さえもが今は愛おしい。
 この灰色の時間があるからこそ、彼女との時間はひどく輝いて見えるのだろうから。
 


 買い物を終えて、アパートの鍵を開ける。中へ入りまた厳重に鍵とチェーンをかけた。
 買ったものを冷蔵庫へとしまい、明かりをつけた。彼女は、いつもと変わらぬ場所にいた。
「ただいま。今帰ってきましたよ」
 挨拶を告げるも、返ってくるのは静寂だけ。それでも、彼女の声が頭の中には響いているようで。
 ベッドのはしへと腰掛けて、艶やかな彼女の髪をなでた。微かに口元が動いたのは気のせいではないだろう。彼女は完全に動けないわけではないのだから。何をいっているのかは聞き取れないけれども。
 きっと私に対する言葉なのだろうと、そう信じて疑わないこの身。
 頬にくちづけてから、私は晩御飯の支度を始めた――
 
 二人分の料理は程なくできあがり、私は彼女の口元へとそれを運ぶ。
 食べやすいように細かくしてあるそれは、一見すると離乳食のようなものだ。
 彼女に与える前に、自分は素早く食事を済ましている。
 スプーンですくって口元へ運んで、流し込む。喉元が反射で動き、飲み込んでいく。口から零れたりむせてしまった分は、きちんとタオルでぬぐって綺麗にしてあげた。
 いつもどれくらいの量をあげるべきか迷ってしまうのだが、とりあえずは自分と同じ量を作って、時折彼女のお腹の辺りに手を当てて具合を確認するようにしている。
 だいたい食べさえ終えると、次はデザートのりんごをあげた。
 そのままでは詰まらせてしまうので、切ってからすりおろした。りんごの皮は彼女の傍でむいた。
 むきおえたら、包丁は傍らにおいたままにして、食べさせてあげた。
 食事を与え終わると、今度は飴玉を一粒口の中へといれてあげる。いうまでもなくあの薬だ。
 いったい彼女に与えているものは、どんな味がするのだろうと考えたことがある。
 とてつもなく甘いのか、それとも吐き出したくなるくらいに苦いのか。
 彼女にとってはどのような味になるのだろうか。しかし、大抵は禁断の果実は初めは甘いものだろう。
 直接聞いてみたい気もするが、答えてはくれないだろう。
 部屋の壁の真ん中あたりを、彼女の瞳は見ているのだろう。実際にはどこも見ていないだろうけど。
 ときおり眼球が何かを探すかのように、右へ左へと動くことがある。私を探しているのだろうか。
「今日もあなたは綺麗ですね。とてもいい香りがします」
 彼女自身から、ふわりと香る甘い匂いに酔いしれる。薬に酔っているのは私かもしれない。
 額やほほ、口や首にキスの雨降らしてから、彼女の折れそうな細い身体を強く抱きしめる。
「愛しています、あなただけをずっと……」
 耳元で言葉を囁く。他の誰にも向けられることのない、彼女だけへの私の言葉。
 きっと彼女も笑ってくれているだろう。私にはそう見えるはずだ。そう見えなくてはいけない。
「    、私のことを愛していてくれていますよね?」
 何故か急激な不安に駆られて、私は彼女にそう問いかけた。
 微かに彼女の指が動いたような気がして、私は指を絡めた。ベッドの上に横たわる彼女を見る。
 記憶にあるものよりも、細くなっている身体。透き通って消えてしまいそうなくらい、青白い肌。
 ぼんやりとどこを見ているのかもわからない、定まっていない視線。
 唇だけは、何故だか鮮やかに赤いままで。誘われるように口付けると、溶けてしまいそうな甘い味がした。
 私は、きっとどうかしているのだろう。
 彼女と二人きりでいられれば、それだけでいいと願って。実際にそれを実行した。
 だから満足しているのだろう。幸せなのだろう。彼女がこうして傍にいるのだから。
 傍にいることを望んだのだから、それに疑問などを持ってはいけないのだ。
「あなたが前のように笑ってくれたら……」
 このいらない感情もどこかへ消えてくれるのだろうか。
 彼女が私を愛している証が欲しいと思うのは、貪欲なのだろう。
 いっそ彼女のすべてを手に入れればいいのだろうか。
 声を、手を、足を、髪を、血を、すべてを。
 この身に取り入れたならば満足するのだろうか。壊して、なくしてしまえばいいのだろうか。
 私がほうっておけば彼女は死んでしまうだろう。私がいなければ生きてはいけないのだ。
 彼女の身体を抱きしめながら、私は部屋の天井をぼんやりと見つめた。
 彼女と私の身体を鎖でつないで、共に朽ちてしまえたならいいのにと思った――
 私はそのまま彼女の隣で眠りへとついた。


 ふわふわと空でもとんでいるみたいな。どこを向いているのかわからない、変な感覚。
 目をたぶん開いているけど、ぼんやりと霧がかかったみたいな状態だった。
 身体はものすごくだるくて、動く気にもならなかった。ほんの少し指先を動かすだけで疲れた。
 心地いいような、しびれているような、なんともいえない感じだった。
 ばらばらの記憶をたどって浮かんだのは、懐かしくていとしい彼の姿。
 いつも見ていたような、もうずっと見ていなかったような不思議な気持ちになった。
 なんどか、この場所でも彼をみたはずなのに変なの。よく考えがまとまらなくて。
 それでも、彼がなにかをしてしまったのは、自分のせいなのはわかっていた。
 おわらせなければいけないのだと、なんとなくわかっていた。
 そう思った次の瞬間には、もうふわふわと夢心地な気分になってしまう。
 ゆがんでしまった世界のなかで、あの人がくるのをひたすら待ち続ける。




 何故だかその日の講義は、とても長く感じられた。
 どこかへ行かないかという恭の誘いを断って、私はまっすぐアパートへと帰ってきていた。
 明日は休みだ。週末にもなってくると、一週間の疲れがたまってくるものなのだろうか。
 部屋を明るくして、ベッドに寝ている彼女の傍へと近寄る。
「ただいま。今日はなんだか疲れてしまいました……元気でしたか?」
 そういいながら彼女の髪をなでるとうっすらとまぶたが開いて、私の方を見た。
 なぜかどきりとしながら、その瞳を私は覗き込んだ。
 普段はぼんやりとしている焦点が、今日に限ってしっかりと定まっているのは気のせいか。
 彼女の瞳の中には、歪んだ私の顔がしっかりと映っていた。私はすぐに覗き込むのをやめた。
 ひどく落ち着かなくなり、彼女を抱きしめようとしたら、鎖が音を立てた。
 かすれた金属音がわずらわしくなって、私は彼女を結ぶ鎖の鍵をはずした。
 この状態の彼女には、もう必要がないはずのものだから、もっと早くはずしていればよかったと思った。
 ぼうっとしている彼女を抱きしめて、どうにか私は落ち着こうとした。
 こんなにもざわざわとした気分になぜなっているのか……理解できなかったから。
 腕の中で彼女が微かにみじろぎをしたような気がして、彼女を見る。
 静かに胸が上下しているだけで、一言もしゃべらない彼女。私が壊してしまった、最愛の人。
 二人で帰り道をあるいていた頃にはもう戻れないのだと、思い知る。
 彼女から身体を離そうとしたときに、気が付いた。彼女の片腕が、背中にまわっていた。
 彼女の顔を凝視すると、微かに唇が動いて――その数秒後。
 わき腹に、燃えるような熱さを私は感じた。
 不思議そうに彼女の顔を見てから、私は自分の腹を見た。深く突き刺さっているのは鈍く光るナイフ。
 それを見てしばらくしてから、果物ナイフだということに気が付いた。
 熱はすぐに全身に広がって、次第に痛みへと変わっていった。
 けれど、その痛みもすぐに気にならなくなってしまった私は、変なのだろうか。
 冷たい時は熱い湯も、浸かっていれば熱いとは感じなくなってしまうように。
 痛みは熱にもどり、体中をじわじわと蝕むだけだった。
 ぼうっとしていると、わき腹のナイフが引き抜かれて、呻き声がもれた。
 視線を彼女へと向けると、目の前で鮮血が散っていた。 
 私の目の前で、彼女も自分の腹へとナイフを突き刺していた。彼女の顔を見ると、引きつりながらも微笑みに彩られていた。その澄み切った瞳に浮かんでいるのは、ただひたすらに純粋な狂気で。
「     」
 彼女の唇がつむいだ別れの言葉を、私はたしかに読み取った。
『        』
 だんだんと表情の零れ落ちていく彼女へ向けて、私もつぶやいた。
 これまで幾度となく告げてきた、今もこれからずっと先も変わることのない想い。
 私が壊した彼女に殺されるのなら、こういう結末も悪くはないと思えた。
 今この瞬間、お互いのことだけを考えているのだから。彼女が何故私を差したのかは理解できない。でもその感情が憎しみにしろ、狂気にしろ、それはただ一人だけに向けられたものなのだから。この……私だけに。殺してしまいたいと、そう彼女が思ってくれたのならば、私はとても満足している。
 共に終われるのなら、もっと早くこうなっていればよかったのかもしれない。
 とてもけだるい身体を動かして、彼女の身体を抱きしめた。すでに彼女の瞼は閉じられていて。
 最後の、くちづけをした。
 甘くて苦い、血の味のそれを、私はきっと忘れないだろう。
 歪んでゆく視界の中、愛しい姿を見つめながら、私は極上の笑みを浮かべる。
 焼け付くような毒に蝕まれながら、暗闇のなかへとふたり落ちていった――
 
 
  
 

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